上野瞭年譜

●1928年(昭和3年)8月16日、京都市に生まれる。本名瞭(あきら)。
父は商売人。炭や米を商う今でいえばチェーン・ストアーの店長のようなもの。常時、数人の店員さんが、一緒に暮らしていた。 敗戦後、食糧公団に務め、やがて京都米穀株式会社の役員になるが、晩年、おろされて不幸だった。
母はいつも眼を病んでいた。敗戦後は木下恵介の映画「日本の悲劇」(望月優子主演)の母親そっくりに哀しい日々を送った。
6人兄弟の長男(弟2人、妹3人)。幼稚園にはいかなかった。

●1935年(昭和10年)七歳
第二錦林尋常小学校に入学。祖母に連れられて新京極(京都の盛り場)で映画を観ることが、唯一の生き甲斐に思っていた時代。 学校で床に正座させられ、「橋の下のおっちん坊主」と言われた。初めての屈辱だった。
「少年倶楽部」を読むようになったが、佐藤紅緑と佐々木邦の小説だけは読まなかった。「よい子」「頑張る子」「できる子」に対する無意識の 反撥かもしれない。勉強のできない気の弱い子どもであった。

●1941年(昭和16年)十三歳
京都市立第二商業学校へ入学。太平洋戦争始まる。なぐられるために学校へ行っていた時代。
中学三年のとき、舞鶴海軍工場へ学徒動員で送られる。製缶工場でガス溶接に従事。このころの話の一部をのちに、『子どものころ戦争があった』(1974年/あかね書房編)に書く。

●1945年(昭和20年)十八歳
立命館専門学校二部に入学。金子欣哉たちの発行する「木馬」、鴨原一穂編集の「子ども・詩の国」に童話を発表しはじめる。 国文学者岡本彦一にも私淑する。胸を病む。フランス文学に惹かれ、日仏会館に通う。

●1950年(昭和25年)二十二歳
同志社大学文化学科に編入学。哲学専攻。卒業論文はデカルトの『省察』をめぐって。辞書を片手に分厚い原書としばらく苦戦した。
片山悠(寿昭)を知る。彼の全面援助で『童話集=蟻』(土山文?堂・私家版)を出版する。港野喜代子、岩本敏男を知る。

●1952年(昭和27年)二十四歳
平安高校で教鞭を執り、国語を担当する。佐藤一男のポケットマネーで始まった『児童文学界』(同人誌)に作品を書く。
この学校をやめるまでに、日本脳炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍と、さまざまな病気を体験する。

●1954年(昭和29年)二十六歳
鴨原一穂、片山悠、岩本敏男らと”馬車の会”を結成し、児童文学誌「馬車」を創刊、”新しい児童文学”を模索する。
乙骨淑子と雑誌「こだま」を通じて知り合い、交流をはじめる。
上野瞭

●1956年(昭和31年)二十八歳
粂田定子と結婚。友人の片山寿昭がすべて取りしきってくれた。
鴨原一穂と日本児童文学者協会の総会に出席のため上京。東京在住の若手評論家・作家を知る。

●1958年(昭和33年)三十歳
7月、いぬいとみこ、佐野美津男、神宮輝夫、古田足日らの”児童文学実験集団”に参加。
9月、日本脳炎で隔離入院。最初の一週間は昏睡状態。半年間ベッドに釘付けだった。

●1959年(昭和34年)三十一歳
四月、やっと職場に復帰。
上野瞭

●1960年(昭和35年)三十二歳
「日米安保条約」をめぐる騒然とした中で、デモにも参加せず「じぶん一人の嵐」を体験していた。

●1963年(昭和38年)三十五歳
思想の科学研究会のサークルとして”不満の会”を西光義へいと始める。鶴見俊輔、加藤秀俊を知る。

●1965年(昭和40年)三十七歳
寺村嘉夫のすすめで、」創作『空は深くて暗かった』を三一書房より出版。

●1966年(昭和41年)三十八歳
この年の秋、今江祥智を知る。今江祥智、古田足日、上笙一郎に『戦後児童文学論』の出版をすすめられる。

●1967年(昭和42年)三十九歳
二月、評論集『戦後児童文学論ー「ビルマの竪琴」から「ゴジラ」まで』を理論者より出版。評論家としての出発点である。

●1968年(昭和43年)四十歳
『ちょんまげ手まり歌』を理論者より出版。さし絵は井上洋介。
『オルリー空港22時30分』(P=ベルナ著 学習研究社)の翻訳を神宮輝夫と神戸光男のすすめで手がける。
上野瞭

●1972年(昭和47年)四十四歳
『現代の児童文学』(中公新書)を加納光雄のすすめで書きおろし、中央公論社より出版。

●1973年(昭和48年)四十五歳
奈良佐保女学院短期大学に移る。児童文化を講義する。
「第二次大戦以降の日本の児童文学思潮」(明治書院版『児童文学講座』)を書く。
上野瞭

●1974年(昭和49年)四十六歳
同志社女子大学に移る。児童文化担当。
今江祥智と二人誌「児童文学通信U&I」を発行。『目こぼし歌こぼし』をあかね書房より出版。大長編ものの第一作目である。
「すばる書房」をはじめた長谷川佳哉を知ったのはこの頃か。
上野瞭

●1975年(昭和50年)四十七歳
春、来日したアメリカの女流作家E・L・カニングズバーグ女史に今江祥智らと会う。 翌年アメリカに女史を訪ね、三泊する。

●1976年(昭和51年)四十八歳
『日本宝島』を理論者より出版。自分の内なる風景をたどりながら”わたしの宝島”を描きだしたものであった。挿絵はかねてより惹かれていた栗津潔氏。

●1977年(昭和52年)四十九歳
八月、雑誌「子どもの館」八月号に「猫たちのバラード・ひげよ、さらば」の連載を始める(1980年11月号完)。

●1978年(昭和53年)五十歳
猫学の本『絵本・猫の国からの挨拶ーMESSAGES FROM PAPER CATS』(すばる書房)を編集部の阿部やよいと編集する。書名は畏友・今江祥智の 『子どもの国からの挨拶』から失敬した。
12月、「日本児童文学」「月刊絵本」などに発表したものを収録したエッセイ集『われらの時代のピーター・パン』を晶文社より出版。

●1979年(昭和54年)五十一歳
<叢書児童文学第三巻>『空想の部屋』(世界思想社)を責任編集。詩人であり同社の編集者であった黒瀬勝巳を知る。

●1981年(昭和56年)五十三歳
4月、雑誌「教育評論」に「さらば、おやじどの」の連載を始める(1985年5月完)。
『想像力の冒険ーわたしの創作作法』(理論社)を今江祥智、灰谷健次郎と編集する。小文、「闇をくぐって姿をあらわすのも」を収めたが、 これは一種の”創作方法論”である。
12月、「飛ぶ教室」創刊号に「日本のプー横丁ー私的な、あまりに私的な児童文学史」の連載をはじめる。(1985年12月に第13章までをまとめ、 光村図書より単行本として出版。)

●1982年(昭和57年)五十四歳
『ひげよ、さらば』(福田庄助絵)を理論社より出版。翌年、第23回日本児童文学者協会賞を受賞。
6月、今江祥智、河合隼雄、長新太らと編集した『児童文学アニュアル1982』(偕成社)を出版。以後3年間、編集委員を務める。

●1984年(昭和59年)五十六歳
4月、NHK連続人形劇(月〜金・午後6時から6時10分)として「ひげよ、さらば」が総合テレビで放映される(翌年3月完)。

●1985年(昭和60年)五十七歳
6月、『さらば、おやじどの』(田島征三絵)を理論社より出版。
11月19日、「砂の上のロビンソン」を島野千鶴子による方絵染の挿絵で「京都新聞」に連載(1986年12月6日完結)。

●1987年(昭和62年)五十九歳
5月、『砂の上のロビンソン』を新潮社より出版。のちNHKよりドラマ化放映される。大阪の劇団コーロが舞台化し、すずきじゅんいち氏が映画化する。(ATG配給)

●1989年(平成元年)六十一歳
8月、ほぼ1年かかって書き下ろした「アリスの穴の中で」を新潮社より出版。

●1990年(平成2年)六十二歳
1月より、「毎日新聞」(関西版)に「晴れ、ときどき苦もあり」を連載開始(週一回)。
『アリスの穴の中で』、TBSドラマ化放映される(堀川とんこう氏)。
小説の第三作目にとりかかる。

●1991年(平成3年)六十三歳
5月の連休より突然頸骨に故障発生し、一時、自転車にも乗れなくなる。病院通いとカイロプラクティックのお世話になる。「もの書き」は、おかげで 開店休業の1年。

●1992年(平成4年)六十四歳
3月、『晴れ、ときどき苦もあり」をPHP研究所より出版(装幀はセガレの宏介)。
(P.S)村瀬学『児童文学はどこまで闇を描けるか』(JICC出版)は、「上野瞭の場所から」とサブ・タイトルのあるとおり、正面から私を論じた一冊である。 これが2月に出たとき、まるで自分の本が出版されたようにどきどきした。

ここまでが『現代児童文学作家対談・7/今江祥智、上野瞭、灰谷健次郎』(インタビュアー・神宮輝夫/偕成社1992年出版)
に上野瞭・本人が書いた年譜。


●1993年(平成5年)六十五歳
『三軒目のドラキュラ』新潮社より出版。

●1994年(平成6年)六十六歳
3月、同志社女子大学を定年退職。「名誉教授」の称号授与。
『そいつの名前はエイリアン』(杉浦範茂絵)をあかね書房より出版。
10月から「猫の老眼鏡」を京都新聞に連載(挿絵は息子の宏介)。
上野瞭・片山寿昭・中村義一の3人で「晩年学」のフォーラムを立ち上げる構想を練る。
12月、「第一回・晩年学フォーラム」開催。

●1995年(平成7年)六十七歳
1月17日、阪神淡路大震災。
『グフグフグフフ』をあかね書房より出版。

●1998年(平成10年)七十歳
2月、癌による肝臓半分と胆嚢の摘出手術。
『ただいま故障中』を晶文社より出版。

●1999年(平成11年)七十一歳
『映画をマクラに』を解放出版社より出版。

●2001年(平成13年)七十三歳
「池袋母子餓死日記」に関する覚え書き。
上野瞭

●2002年1月27日(平成4年)午前1時10分に永眠。享年74歳。

ここまでは、村瀬学氏が『上野瞭遺稿集』(晩年学フォーラム事務所発行)に追記記述したもの。

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